子どもの作文の練習につきあって、ありとあらゆる子ども向けの国語力養成教材を集めるはめになった。
毎日数本の文章を一から書き、書き直し、完成させる。「もちいるって、なにをすること?」「抽象と具体って、雲と水みたいなこと?」という程度の語彙力の子どもに「作文力」がどうやったらつくのか、素人なりに、試行錯誤している。
あれこれと読み書きするなかで、子どもの作文の評価基準も、どうやら研究論文と似たような構造を持っているのではないか?というあたりまえのことをいまさら考える。
オリジナリティ、エビデンス、コへレンス、プレゼンテーション。
たとえば、作文型の入試問題を見ていると、後半の3つが主な要素になっているような印象がある。おそらく、さらに「オリジナリティ」がにじみでる作文を書くことができると評価が「底上げ」されるのだろう。
子どもの場合、科学的な意味での新規性や、作家性の実現はひとにぎりの天才に限られるだろう。だから「エビデンス」つまり実体験を掘り下げ、その子なりの「自分らしさ」につなげて表現しようとする過程が、作文にあらわれてくることが重要そうだ。
文章を書けない、言葉を知らない子どもを見ていると、がっくりと、これまでの日常生活でなぜもっといろいろなことを伝えられなかったのかと無力感にさいなまれることのほうが多い。
その一方で「成長」としか言いようのない飛躍が、大小、起きることがある。その言葉の意味がやっとつながったのか、ああ、そう読んだのか、そう感じたのか。子どもみずからの手で、想いが言葉になった瞬間、もう「子ども」ではなくなろうとしているのだと理解する。言葉を獲得して10年やそこらで、鉛筆一本で表現される自分の力を問うチャンスの尊さ。
作文を書くとき、自分のこれまでを振り返ると、過去への感謝が生まれてくる。理由や意見を伝えるための一貫性を求めはじめれば、自分が発する言葉の中身と責任を問うようになる。なにより「誰が読むのかを考えて文章を書く」その最初の体験を、いま歩み出している。
母親密着型中学受験、という表現があるそうだが、そりゃそうだなと思った。12歳そこらの子どもが、文章の書き方をあらためて学ぶとき、新しい言葉を身につけなければ言いたいことが言えない、つまり概念を獲得する必要がある。この感覚は、おなかのなかにいた子どもを、この世に産み出したあの作業に、そうとう近い。
さあ、こちらにはもっと楽しい世界が待ってるぞ、と全力で導きながら、叫び出したくなるようなさみしさも感じる。ただし、原稿用紙が1枚積み上がるたびに、もう一度、小さな我が子との別れが近い感覚を味わえる。ひとまわり大きくなったその子と出会い直せる、幸せと一緒に。